「オールドファッションカップケーキ」最終話の「橋」からの深読み。
原作を尊重しながらも、映像ならではの表現で一層印象深くなったシーンも多々あるなぁと思いながら観ました。
映像ならではの表現があるシーンで私が特に好きなのは、
深読みし過ぎだから!と自分でも思うけど、語る相手も特にいないのでぽちぽちと書いてみました。
ネタバレしかないのでご注意ください。
■メタファーとしての橋
「境界に立つ」「一線を越える」などのメタファーとして使われる橋。
原作では雑踏の中を外川へ向かって駆け出した野末が、ドラマでは橋の上から駆け出します。
一度は彼岸へと歩みを進めようとするけれど。
振り返って此岸へ駆け出す。
此岸は、外川とともに生きていく人生。
「橋の上」という絵が野末のこの決断を引き立てていて大好きです。
■橋=人生だと思うと…
彼岸へ歩いていく野末に傘を渡すために此岸から駆けてきた外川は、野末のことばを遮るようにして去っていきます。
これが、「橋の手前あたりの歩道」ではなく「橋の上」で起きるのは、外川が野末の人生から去る覚悟をしているような気がして切なさが増す……んですけど、少なくとも私は。
あの橋の袂が普通の歩道につながるのではなく、橋から降りるような構造になっているのもまた、いなくなってしまう感じが強くて切ない。
野末が立ち止まって振り返る位置はおそらく橋の真ん中まで来ていないあたり。つまり、人生はまだ半分以上あるんですよね。39歳の野末の人生はまだ折り返し地点にも到達していない。これはその後の81歳の件にもつながるのかなと思ったりしました。
■此岸と彼岸の仏教的解釈…?
此岸と彼岸は一般的な名詞だけではなく、仏教用語でもありますが、それをそのまま当てはめて考えようとするのは無理があるなぁ…と思うけれど。
でも、欲を捨ててしまっていた野末は悟りの境地に近いのではないかと。
そんな彼が己の中に目覚めた欲を自覚し、
■脇道がない橋
そしてこれは完全に深読みしすぎの域だと思うけど、駆けていく野末が橋の上を歩く人々にぶつかりそうになりながら躱すのが、多少の困難はあっても乗り越えるという意志の現れだったりするんだろうか…と。考え過ぎかな。
■人が生活する灯り
だから、野末も…とは思わないけど、そういうあたたかみのある橋がその舞台だったという点もいいわぁ…と思いました。
■橋の要素以外も好き、もちろん
このシーン、それ以外も好きなポイントが。
Twitterにも書いたことがありますが、野末が駆け出すよりもほんの一瞬カメラが早く動き出すのが無茶苦茶好き。気持ちのほうが先に駆け出しているような感じがして、ぶわっと血が滾るような興奮があります。好き、ほんと好き。そして、駆け出した野末のモノローグが決して感情的ではないのも大好きです。野末は一時的な感情で衝動的にそれを決めたわけではなく、冷静なのだと分かるのが”大人の恋愛ドラマ”って感じがして……好き。というか、好きではないシーンが一箇所もないんですけど。
以下、自分語りですが。
いろいろと深読みしすぎていて、実は「橋は撮影がしやすい」とか「次のシーンにつなげるためにこうせざるを得なかった」とかそういったことかもしれないけれど、私にとっては何度も反芻して考えるほど印象深いシーンだったということで。
考えているうちに、自分自身の人生もあの橋の上に置いてみて視覚化されたような感じがしています。
今の仕事は余生を過ごすようにやっていこうと心のどこかで思っていたけれど(手を抜くとかそういうのじゃないよ。ちゃんとやるんだけど、ぐわああああ!ってやらない感じ)、そうじゃないなと。この仕事を前の仕事と同じくらい、いや、それ以上愛するくらいの気合いでやってやるわ!と思うようになりました。同じ目標に向かって共に進むみなさんとともに。
ということで、長々と失礼いたしました。