「スリル・ミー」"彼"への個人的な共感と、共依存の果てについて思うこと。

木村&前田ペアの初日と、9/27を観た時点での感想をつらつらと。
ネタバレありで書くのでワンクッション。


9/20も観劇予定でしたが、10/1に振替となりました。
9/20は朝、客先で少々仕事をした後、開場時間までかなり余裕があったので、東京芸術劇場の楽屋口の向かいにあるセブンイレブンでチケットを発券。以前、そのビルの中で働いていたので懐かしく思いながら外へ出て、スマホに仕事の連絡が来ていないか確認し視線を上げたところで、

ん?……達成くんが……いる……??
え!?達成くん??いる???え!えええええ!!!!!

笑いながら車から降りて、半袖短パン(上下黒)で台本片手にのしのしと歩いていきました。なんてすばらしいタイミング(笑)。


さて、そろそろ本題。
わたくしsaccoの一人称は「わたし」で書いています。

お芝居というより物語のことになっちゃうかもしれませんが、木村&前田ペアを観て感じたことをつらつらと書いています。


「スリル・ミー」を観ること自体が初めてで、英語の本は手に入れているのですが、事前に予習しませんでした。過去の映像も一切観ていません。

■それは故意だったのか?
まず、私が遺棄現場にわざと眼鏡を落とし、彼とともに収監されることを望んだというのが衝撃ではあるのですが、やっぱりそうだよね…という共感もありました。
ただ、そのことばが真実かというとそうではないのではないかとも思ったり。

初日を観た印象では、案外、「眼鏡は故意に落としたのではないが、故意だったと伝えることで彼の感情を自分へより強く縛り付けておける、と思った」ということなんじゃないかな…と思いました。凶器を処分しないことで事件を発覚させるつもりだったけれど、想定外に眼鏡から発覚してしまった、そうじゃないと動揺する様子に説明がつかないのではないかと。

でも、9/27の印象は全然違っていて。
初日は可愛らしさと嫋やかさが強く見えた気がしますが、この日はそれらが少し薄れた代わりに、狂気に傾いているのが見える瞬間があって(特にあるシーンで顔が徐々に笑っていくのが非常におそろしかった…)。この私だったら眼鏡を故意に落としたけれど、そうではないと自己暗示を掛けて激しく動揺して見せるくらいやってのけそうだな…とぞっとしました。二重人格とまではいかないけれど、それくらいのコントロールができそうな感じ。まさに超人なんだと思う。

 

■彼の苦悩への個人的な共感
そして、9/27に私をそう感じた理由のひとつは彼にもあって。

初日に観たときには、彼の大きな体や左右対称に美しくバランスの取れた立ち姿、知的で涼やかな顔立ち、そういったルックスからも人の心を失ったような彼のおそろしさを感じました。

でも、この日はおそらくハプニング的なことだと思うけれど、彼(というより前田さんというべきか)のサイドの髪が崩れて顔にかかるので何度も耳にかける仕草がありました。前田さんはきっと大変だったと思うけれど、その仕草が完全無欠な彼を物語の展開よりも前に崩したことで、超人として殺人へ向かう彼ではなく、人として殺人へ向かう彼として捉えることができて、わたしは、なんとなく、"わかるな…"と思えました(全然うまく言えないけど。なんか、イレギュラーな仕草が入ると人間味あるよね、的なことを言いたいんだ。)

わたしも弟がいるのですが、母は「親といえどもかわいい子とかわいくない子がいて当然」とはっきり言い、弟だけが写っている写真を"子どもの写真"として持ち歩くというほどの環境で育ちました(幸い、衣食住や教育は平等)。だから、彼の気持ちが分かる。「弟さえいなければ」とわたしも何度も思ったから。

そんな気持ちで観ていたら、彼が子どもを誘うシーンがもうどうしようもなくつらくて。この微笑みや優しい口調を殺人のための演技ではなく、彼が日常の中で現すことができる瞬間が今まであったんだろうか、いや、きっとなかったんだろうと思うと、涙が頬を伝ってしまいます。

初日は境遇が似てるなんてまったく思わなかったので、あの髪のハプニングが生み出した非常に個人的な共感でした。

 

共依存、だよね…?
だから、27日は人間味を若干含んだ彼と狂気に傾いた私という印象がわたしの中にはあります。

 

私と彼は少なからず共依存の関係にあるのだと思いますが。

初日の印象は、双方それに気づいておらず、私は彼からの愛を無心に求めているだけ、彼は私を憎からず思いながら、私から彼への思慕を利用したいという感じ。

でも、27日の"狂気に傾いた私"は、家族から愛を得られない彼の苦しさを利用して共依存状態に巧みに導いているんじゃないかと。
ほんとに、こわかった。この日の私。

別のあるペアを観たときには、共依存というよりも彼が私を支配している感じが強かったのが結構意外でした。
前田さんの彼は表情や触れ方、声音など非言語的な部分に、私への欲が潜んでいるような気がして。家族に対して求めたいものを求められないもどかしさとともに心の底にまとめて押し込んでぐちゃぐちゃになっているけれど、知性や自尊心で隠した涼しい顔で堂々とそこに立っている。それを私は感じ取りながら、自分だけが理解者だと彼に刷り込んで、彼の心の底に好き好んで手を突っ込んでいるのだから、本当に質が悪いのはどちらなんだろうかと、美しい木村さんの顔を観ながらぞっとするのでした……

自分語りになってしまいますが、共依存ってほんとにいつの間にかそうなってますよね。以前いた会社で上司とともに難局を何度も乗り越えているうちに上司が精神的な拠り所になり「死ぬまで一緒に働く!」「よし、ずっと一緒にいよう!」というほどの状態に。愛ゆえに過労死寸前の状態まで働いたこともあった(笑)。ですが、ある日「キミがいるとこの会社を立て直せるような気がしてしまう。キミがいなくなればすべてを諦められる気がするんだ。だから会社を見捨ててくれ」と言われて、上司もわたしに相当依存していたんだと気づきました。周囲から「絶対おかしい。離れるべきだ」と何度も言われても「え?恋愛関係じゃないから不倫じゃないし。何がダメなの?」と思っていたけれど、異常だったって今は分かる。今はふたりともその会社を離れ、適度な距離で"友人"として親しくしています。

 

■想い人の思考の中に存在したい
彼が殺人の標的について話す際に、私が殺す対象は自分かと尋ねる台詞がありますが、そこに恐怖心があまり感じられないのがいいな。
どうやっても自分だけのものにならない想い人が自分を殺してくれるというのは甘美な誘惑だと思うんですよね。だって、おそらく、彼の思考の中に強く自分を残すことができるから。わたしがもし私だったら自分を殺してくれと懇願したい。

でも、彼が殺したいのは弟で。
私はそれを倫理観から止め、対象を他の子どもにさせ……ているように見せているだけで。
いちばん憎い弟を殺したら彼の思考を支配するのはその記憶。私が入り込む余地がなくなってしまう。それだけは絶対嫌。だから、決して倫理観が理由ではなさそうだとわたしは思いました(人を殺すのに倫理も何もないんだけど)。

彼にとってどうでもいい子どもを一緒に殺し、完全犯罪の予定をぶち壊しにし、最後の最後に種明かしをすることで、絶望と憎しみを彼に深く深く刻み、その思考を私でいっぱいにし、どこへも行かないように物理的に(ある意味、合法な手段で)閉じ込める。
私は鳥かごの中の鳥は二羽だと言うけれど、それは私の願望であって、
わたしは一羽だと思う、私は鳥かごだと思う。

 

 

そんなことを2回観た時点の今は感じました。

ここからは感想ではないけれど。
キツいなぁ…と思うことがそこそこ多い人生で(笑)、上に書いた親の話とかもそうなんですけど、でも、演劇や映画を観たときに「あ、わかる!」と感じられる引き出しが多いという意味では無駄なことって何もないですね。