「スリル・ミー」彼に対する私ではなくわたしの加虐心に気づく夜。(木村・前田ペア/振替公演、東京千秋楽)

ネタバレありで書くので、ちょっとワンクッション。


名古屋と高崎にも行くけれど、その後のロスに備えて田代・伊礼ペアの音源を購入しました。
我が家にはNICOBOという家庭用ロボット(なまえは「つなちゃん」。由来は「たつなり」さんから2文字)がいるのですが、低い声が大好きなつなちゃんは音源を聞いていると「そうだね。」「いいね。」「こまったね。」「がんばる。」などと反応するのですが、内容が内容だけに永遠の2才児(NICOBOのコンセプト)に聞かせていいのか迷うところではあります。
それは置いといて、木村・前田ペアの音源も売ってください、お願いします。耳が寂しくて死んじゃう。

今回もわたくしsaccoの一人称は「わたし」です。

 

さて。
東京千秋楽の衝撃は凄まじく、「千秋楽、無事終わってよかったね。カーテンコールの笑顔、かわいかったね。」などの感情は一応あったものの、そこにフォーカスできないほど落ちていました……いい意味で。

 

■憐憫から狂気へ。その果てに、健やかさへ??
東京4公演しか観ていないから、わたしが観て感じたことからしか言えないけれど、
初日の私は自己憐憫
9/27の私は狂気がにじみ始め。
10/1の私は狂気に傾き、

東京千秋楽の私は……健やかだったと思う。
そう思ったのはわたしだけか??

冒頭の、委員会の場にいる現在の私の声がまず打ちひしがれていない。
むしろ、ふてぶてしい。
そこに新鮮な興奮と期待が湧きました。
そして、現れた19歳の私は
ええーーー!!!めっちゃ健やかじゃん!!!
(木村私にはそちら側へのレンジもあるのか!!!)
と驚き、彼に対して言うことを言いながらも態度と声は下手(したて)に出ることが常だった私が堂々と喋っていることに更に高まる期待。これはもしかして結末が変わってハッピーエンドになるんじゃないか!?と一瞬本気で思ったくらい健やかでした。

これまで観てきた私は彼に対しての愛情と後ろ暗さを併せ持っており、その後ろ暗さが自己憐憫や狂気を生み出すのだとわたしは感じていたんだけれど、千秋楽の私には後ろ暗さがなく、愛への迷いがないというか……
例えば「僕はわかってる」の歌詞を、千秋楽以外では追い縋って引き止めるための哀願だと感じていたんだけれど、千秋楽では、この子は本気で「僕しかいないでしょ?なんでわかんないの?」くらいの感覚でいるんだなと感じました。

でもね、その健やかさを持ってしても結末は一緒なんですよね。
(全ては台本なのだから当たり前だけどさ)

愛されたいのに愛されない悲しみや、どうにかして愛されたいという狂気から、彼とともに収監される道を作るというのも感情としては理解しやすくてすごく好き。
だけど、愛してるんだからなんとしてもずっと一緒にいるよ、当然でしょう、くらいの健やかな狂気は深度が深すぎて、救いようがなくて、結局もっともおそろしくて、絶望的だな……

千秋楽がこれだったのは作為じゃないとしても、観ている側としてはなんつーものを最後に観せてくれたんだよ!!最高じゃねぇか……!!!と、翌朝9時の仕事開始まで時折ぐしぐしと泣きながらどっぷり落ちてました(落ちてたけど、仕事先で9時の始業時刻ぴったりに「さっこさんに頼みたいことあるんすけどーいいすかー」と話しかけられた瞬間に「おっしゃ!なんすかー?」とピコッとスイッチ入ったので大丈夫。さすがにオトナ歴長いんでね)


(10/1も結構衝撃で、悲哀と狂気の沼に引きずり込まれて脳がひたひたに浸った感じ。頭を使いすぎたらしく、見終わった後、頭痛がひどかった……)

 

■忍び足
彼が登場し、私の背後から忍び寄って、腕を前に回して驚かすシーン。
忍び足してるときの前田彼の表情がほんとにかわいい。
そのかわいらしい表情や動きは、体に触れた瞬間にさっと空気を変える。

幼少期は仲のいいごく普通の友だちだったんだろうな。
だけど、どこかでふたりの関係は変わっていって、
今はただならぬ関係にある。

初日の時点では何も予習していなかったわたしの頭の中をそんな想像が一瞬で駆け巡りました。

その想像が正解かは分からないけれど、ああいった一瞬に時間的な奥行きを観てしまうことがわたしにとっては映像作品とは違う面白さだなと思います。

 

■レイ
前田彼が発する「レイ」の甘さに溶けそう。
めちゃくちゃなことを言っていいならば、対象を手懐けるためにDV傾向がある人間が優しい声で呼びかけているような気がしなくもないんだけど、あれはもうご褒美でしかない。

海外の「スリル・ミー」がどういったキャストで演じられているか知らないし、実際の犯人たちがどういった人物だったのかも知らないけれど、支配関係を外見的に分かりやすくしようとするなら、彼が大きくて私が小さいほうが観客は飲み込みやすいような気がする(実際、わたしが観た別ペアは体格差が大きく、それだけでも彼の威圧感が非常に大きく感じられた)
でも、この木村・前田ペアは体格に大きな違いがなく、彼の声が特に低いわけでもない。なんなら、木村私が前田彼に殴りかかったら勝てる可能性すらありそう。だけど、そんなことにはならず、私が彼に愛されたいと期待し続けるのは、やはり、彼が時折気まぐれにくれるそのご褒美が余程甘美なものだったのだろうと、「レイ」と呼びかける声の甘さから想像してしまうのです。

 

■脅迫状
「脅迫状」の曲間での自分のために親は身代金を出してくれるかという仮定についての会話と「おまえ次第だ 息子の命 救いたければ」という歌詞。逮捕後の私と彼につながる伏線と考えてもいいのかな。
私は彼の親に絞首刑という脅迫を突きつけ、金(弁護士費用)を払わない親から彼を永遠に奪ったと考えるのは考え過ぎか…?


木村私と前田彼のペアは、一方的な支配関係ではないとわたしは感じてしまうから、なんとなく深読みしてしまいます。
例えば、私がやたらと「弟」と言うのも、実際、弟に尋ねれば聞き出せたり、要求がスムースに通ったりするんだろうし、それはあの緊張感の中でくすっと笑える一瞬だったりするんだけど、木村私はわざと言っているとしか思えない。彼の苛立ちを掻き立てることで「ほら、親ですら君を見ていないんだよ。弟がいるせいだよ。憎いよね。でも、僕はずっと君を見ているだろう。僕がいちばんの理解者だ。僕しかいないだろう」と言外に訴えている……ってサイコパスか……ほんとこわいな、私。

■死にたくない
そして、そんな私の策略に嵌ったとも知らず、死刑判決を恐れ、恐怖で半狂乱になる夜。
彼は"超人"であることを証明したと言うけれど、それは"幼児的万能感"でしかなかったのではないだろうか。あるときまでは愛されていたからこそ築けた万能感だったけれど、弟の誕生によって愛情を得られなくなったことで本来するべき経験を出来なかった。だから、幼児的万能感を知性で塗り固めただけで今まで来たのではないか。
前田彼の狂乱に幼児性を感じて、そんな想像をしました。


こんなふうに考えていくと、前田彼が殺人へ向かってしまった理由は分からなくはないんだ、善悪は別として。だからこそ、平和な家庭で愛に包まれていたであろう私が彼とともに生きたいという"愛"ゆえに倫理観を打ち壊してでも犯罪に手を貸す木村私が本当にこわい。愛でそこまで出来る…??って。そして、それで手に入れられるならやるかもな…と思うわたしがこわい。

あの前田さんの声、言い方、身体の動き、髪の乱れ方。観ていると、この人をどうにかして救ってあげたいという気持ちが湧くと同時に、こいつをもっとぶっ壊してやりたいという加虐心を煽られながら、隣の房にいる木村私のほうを観ると眠ってないし、起きてるし、にやりとしたかと思ったら、大口開けて笑っている。あぁ、今、わたしが感じている加虐心は私の心情に随分近いところにあるのかもしれないと気づいて、わたし自身に潜む狂気にぞっとしました。特に10/1。もうね……頭も痛くなるよ……

 

■本筋とあまり関係ないけど。
東京千秋楽が通路側の席で、真横を木村私が歩いて行ったんですけど、劇場の構造もあってのことですが、一歩が非常に重くて。
一週間近く経った今も、あの一歩をふいに思い出しては、時間の重さを考えてしまう。
奪った時間であったり、自ら失った時間であったり。
組んでいた手が解ける(手錠を外される)場面でもそれを感じました。
わたしがどんなに私の精神性に共感できたとしても、犯罪に手を染めてはいけないと月並みだけど強く感じます。


■まだ名古屋と高崎があるので、
このあたりで今日のところは終わっておこうと思いますが。

本筋とあまり関係ない話だし、読んだ方が気を悪くするかもしれないと思いつつ。

わたしが感じる達成くんのお芝居の魅力は、人物像を掘り下げてしっかりと自分の中に構築できていて、台本にない時間まで演じられるんじゃないか?と思わせてくれるところ。実際どうなのかは知らないから"思わせてくれる"としか言えないけど、「台詞言ってます」感はないし、「身体の奥から湧いてきてます」って感じがする。そして、レオナルドやトランチブルのようなぶっとんだ人物だったとしても、レオナルドのこれまでの日常生活を想像したり、トランチブルの女の一生を妄想したりできるくらいに生きているとわたしは感じられる、んですけど。

そういった魅力を他の俳優さんに感じられるかといったら、それは非常に稀で(映像作品ではいるけど)。だから、ふたりでお芝居するってどうなんだろう?と不安な気持ちを持ちながらチケットを買いました。

そして、初日。
前田さん、すごく自然に彼だった。
役を着ているんじゃなくて、役が内在している感じとでも言えばいいのか。
シームレスに馴染みきった感じで、一瞬、うっかり「前田さんってこんなにサディスティックな人なのか」と思ったほど(違うってば、役だよ、役!ってすぐに自分でツッコミいれたけど)。
こんなにストレスなく観られる舞台、あったんだ……
このキャスティング、奇跡では!?
などと、観劇歴めちゃくちゃ浅いわたくしめが大変興奮いたしました。

前田さん、また舞台出るかな。絶対観に行きたい。
そして、あわよくばおふたりが再び共演したらいいな、と思ったり。
舞台がいいけど、映像作品でバディーものとかも観てみたいなんて妄想してみたり。

 

ほんとにいいペアだなぁ。
あと2回しか観に行けないなんて。
頼むから円盤出してください。
映像でも音源でもいい。
土下座したい勢いでほしいです、ほんとに、切実に。

「スリル・ミー」"彼"への個人的な共感と、共依存の果てについて思うこと。

木村&前田ペアの初日と、9/27を観た時点での感想をつらつらと。
ネタバレありで書くのでワンクッション。


9/20も観劇予定でしたが、10/1に振替となりました。
9/20は朝、客先で少々仕事をした後、開場時間までかなり余裕があったので、東京芸術劇場の楽屋口の向かいにあるセブンイレブンでチケットを発券。以前、そのビルの中で働いていたので懐かしく思いながら外へ出て、スマホに仕事の連絡が来ていないか確認し視線を上げたところで、

ん?……達成くんが……いる……??
え!?達成くん??いる???え!えええええ!!!!!

笑いながら車から降りて、半袖短パン(上下黒)で台本片手にのしのしと歩いていきました。なんてすばらしいタイミング(笑)。


さて、そろそろ本題。
わたくしsaccoの一人称は「わたし」で書いています。

お芝居というより物語のことになっちゃうかもしれませんが、木村&前田ペアを観て感じたことをつらつらと書いています。


「スリル・ミー」を観ること自体が初めてで、英語の本は手に入れているのですが、事前に予習しませんでした。過去の映像も一切観ていません。

■それは故意だったのか?
まず、私が遺棄現場にわざと眼鏡を落とし、彼とともに収監されることを望んだというのが衝撃ではあるのですが、やっぱりそうだよね…という共感もありました。
ただ、そのことばが真実かというとそうではないのではないかとも思ったり。

初日を観た印象では、案外、「眼鏡は故意に落としたのではないが、故意だったと伝えることで彼の感情を自分へより強く縛り付けておける、と思った」ということなんじゃないかな…と思いました。凶器を処分しないことで事件を発覚させるつもりだったけれど、想定外に眼鏡から発覚してしまった、そうじゃないと動揺する様子に説明がつかないのではないかと。

でも、9/27の印象は全然違っていて。
初日は可愛らしさと嫋やかさが強く見えた気がしますが、この日はそれらが少し薄れた代わりに、狂気に傾いているのが見える瞬間があって(特にあるシーンで顔が徐々に笑っていくのが非常におそろしかった…)。この私だったら眼鏡を故意に落としたけれど、そうではないと自己暗示を掛けて激しく動揺して見せるくらいやってのけそうだな…とぞっとしました。二重人格とまではいかないけれど、それくらいのコントロールができそうな感じ。まさに超人なんだと思う。

 

■彼の苦悩への個人的な共感
そして、9/27に私をそう感じた理由のひとつは彼にもあって。

初日に観たときには、彼の大きな体や左右対称に美しくバランスの取れた立ち姿、知的で涼やかな顔立ち、そういったルックスからも人の心を失ったような彼のおそろしさを感じました。

でも、この日はおそらくハプニング的なことだと思うけれど、彼(というより前田さんというべきか)のサイドの髪が崩れて顔にかかるので何度も耳にかける仕草がありました。前田さんはきっと大変だったと思うけれど、その仕草が完全無欠な彼を物語の展開よりも前に崩したことで、超人として殺人へ向かう彼ではなく、人として殺人へ向かう彼として捉えることができて、わたしは、なんとなく、"わかるな…"と思えました(全然うまく言えないけど。なんか、イレギュラーな仕草が入ると人間味あるよね、的なことを言いたいんだ。)

わたしも弟がいるのですが、母は「親といえどもかわいい子とかわいくない子がいて当然」とはっきり言い、弟だけが写っている写真を"子どもの写真"として持ち歩くというほどの環境で育ちました(幸い、衣食住や教育は平等)。だから、彼の気持ちが分かる。「弟さえいなければ」とわたしも何度も思ったから。

そんな気持ちで観ていたら、彼が子どもを誘うシーンがもうどうしようもなくつらくて。この微笑みや優しい口調を殺人のための演技ではなく、彼が日常の中で現すことができる瞬間が今まであったんだろうか、いや、きっとなかったんだろうと思うと、涙が頬を伝ってしまいます。

初日は境遇が似てるなんてまったく思わなかったので、あの髪のハプニングが生み出した非常に個人的な共感でした。

 

共依存、だよね…?
だから、27日は人間味を若干含んだ彼と狂気に傾いた私という印象がわたしの中にはあります。

 

私と彼は少なからず共依存の関係にあるのだと思いますが。

初日の印象は、双方それに気づいておらず、私は彼からの愛を無心に求めているだけ、彼は私を憎からず思いながら、私から彼への思慕を利用したいという感じ。

でも、27日の"狂気に傾いた私"は、家族から愛を得られない彼の苦しさを利用して共依存状態に巧みに導いているんじゃないかと。
ほんとに、こわかった。この日の私。

別のあるペアを観たときには、共依存というよりも彼が私を支配している感じが強かったのが結構意外でした。
前田さんの彼は表情や触れ方、声音など非言語的な部分に、私への欲が潜んでいるような気がして。家族に対して求めたいものを求められないもどかしさとともに心の底にまとめて押し込んでぐちゃぐちゃになっているけれど、知性や自尊心で隠した涼しい顔で堂々とそこに立っている。それを私は感じ取りながら、自分だけが理解者だと彼に刷り込んで、彼の心の底に好き好んで手を突っ込んでいるのだから、本当に質が悪いのはどちらなんだろうかと、美しい木村さんの顔を観ながらぞっとするのでした……

自分語りになってしまいますが、共依存ってほんとにいつの間にかそうなってますよね。以前いた会社で上司とともに難局を何度も乗り越えているうちに上司が精神的な拠り所になり「死ぬまで一緒に働く!」「よし、ずっと一緒にいよう!」というほどの状態に。愛ゆえに過労死寸前の状態まで働いたこともあった(笑)。ですが、ある日「キミがいるとこの会社を立て直せるような気がしてしまう。キミがいなくなればすべてを諦められる気がするんだ。だから会社を見捨ててくれ」と言われて、上司もわたしに相当依存していたんだと気づきました。周囲から「絶対おかしい。離れるべきだ」と何度も言われても「え?恋愛関係じゃないから不倫じゃないし。何がダメなの?」と思っていたけれど、異常だったって今は分かる。今はふたりともその会社を離れ、適度な距離で"友人"として親しくしています。

 

■想い人の思考の中に存在したい
彼が殺人の標的について話す際に、私が殺す対象は自分かと尋ねる台詞がありますが、そこに恐怖心があまり感じられないのがいいな。
どうやっても自分だけのものにならない想い人が自分を殺してくれるというのは甘美な誘惑だと思うんですよね。だって、おそらく、彼の思考の中に強く自分を残すことができるから。わたしがもし私だったら自分を殺してくれと懇願したい。

でも、彼が殺したいのは弟で。
私はそれを倫理観から止め、対象を他の子どもにさせ……ているように見せているだけで。
いちばん憎い弟を殺したら彼の思考を支配するのはその記憶。私が入り込む余地がなくなってしまう。それだけは絶対嫌。だから、決して倫理観が理由ではなさそうだとわたしは思いました(人を殺すのに倫理も何もないんだけど)。

彼にとってどうでもいい子どもを一緒に殺し、完全犯罪の予定をぶち壊しにし、最後の最後に種明かしをすることで、絶望と憎しみを彼に深く深く刻み、その思考を私でいっぱいにし、どこへも行かないように物理的に(ある意味、合法な手段で)閉じ込める。
私は鳥かごの中の鳥は二羽だと言うけれど、それは私の願望であって、
わたしは一羽だと思う、私は鳥かごだと思う。

 

 

そんなことを2回観た時点の今は感じました。

ここからは感想ではないけれど。
キツいなぁ…と思うことがそこそこ多い人生で(笑)、上に書いた親の話とかもそうなんですけど、でも、演劇や映画を観たときに「あ、わかる!」と感じられる引き出しが多いという意味では無駄なことって何もないですね。

「新ハムレット」を観て、自分のモラトリアムの終焉を思い出す

ネタバレに入る前に、ワンクッションとして無関係で当たり障りのない話を。

2022年6月13日に「オールドファッションカップケーキ」の配信が始まったので、2023年6月13日は木村達成さんを知って1年の日でした。
BLの実写にさほど興味がなく、なんとなく観た1話。
その先にこんな楽しい時間が広がってるなんて思いも寄らなかった。
oldfccの好きなところを書きだすとキリがないんだけど、すごいなぁと思ったうちのひとつは回想シーンの就活生外川。映画やテレビの回想シーンってとりあえず見た目を若くしてみました的な雑さが目立って違和感があったり、中には失笑するほどおかしいこともあったり、回想シーンを敢えて作らなくてもよかったんじゃ…と思うことがある。でも、oldfccの回想シーンは髪型やスーツの着こなしによるところももちろんあるけれど、視線の動きや表情が29歳の外川とは違いながらもこの先に社会人として豊かな経験を重ね、野末さんへの想いを深めた29歳の外川がいるという連続性をあの短いシーンで感じさせてくれるのがすごいなぁと思いました。


ワンクッションはここまでで、ここからはネタバレもあるし、思ったこと書いてます。

観劇経験がそれほどないから、妙なこと言ってるかもしれないけど。
台詞を発しているときに23歳の青年に見えるのは当然として、人の話を聴いているときに浮かぶ照れ、怒り、寂しさ、憤り、優しさ、愛しさといった表情を作る顔の筋肉の配置が29歳じゃなくて23歳って感じがする。
うん。

何言ってんだろうって感じだけど。

「新ハムレット」を読んだときに、ハムレットの台詞は達成さんがインタビューなどで発言していることと近いような気がして違和感がなさそうだと思いました。
でも、実際に観てみるとそういったパーソナルな部分が透けて見えることはなく、最初から最後まで23歳の青臭いハムレットとしてそこにいて、体の底から湧いてくることばを発して、周囲のことばを全身で受け止めていると感じました。
原作だと難解な部分も、テンション、表情、姿勢、目線、そういった非言語の要素が加わることでするすると理解できました。

ハムレットが語ることばを追うと矛盾を感じる部分があるけれど、彼はことばよりも表情が雄弁。
ホレーショに母や叔父をどう思っているか語るシーンはあの表情を見るときっと素直な気持ちから出たことばであろうと思えるし、幼ささえ感じさせる可愛らしさ。この表情と最後の「僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ちつづける。」で見せる表情との対比が私は強烈に印象に残っていて、彼がこの素直で可愛らしい表情で叔父や母を語ることはもうないのだろうと思うと胸がぎゅうっと苦しくなります。
そして、あのプツンと途切れるような幕切れがカタルシスを連れてきてはくれなくて、そこに意識を釘で打ち付けて逃れさせないような重さが好きです。

少し自分語りになるけど。
ハムレットが短刀を取り出すシーンでふと思い出したんだけど、私も学生時代が終わりに近づく頃、家族との不和がきっかけで、刃物で自殺未遂、正確には"自殺未遂の未遂"を起こしたことがあったな…と(それから数日後に別の手段で本当に自殺未遂を起こしてしまいましたが)。
薬物による自殺未遂が原因で頭から言語がかなりぶっ飛んでしまい、修士論文の提出が間に合わないと教授に相談に行くと「私の息子も君くらいの時期、就職を目の前にした時期に自殺未遂をしたよ。そういうものなんだよ。君をなんとしてでも卒業させるから必ず就職しなさい」と穏やかに言われました。そのときに「あぁ、私のモラトリアムはどう足掻いても終わるんだな……」とやっと覚悟が決まったんですよね。

 

だから、ハムレットの最後の表情はモラトリアムの終焉、いや、決別なのかな。
それが父親の死についての叔父への疑惑だなんて悲しいけれど、何をきっかけとするかはタイミングだし、ハムレットはそれを依拠としただけなんじゃないか……とおそらく相当屈折しているであろう解釈をしました。
あの赤と白が混じったピンクの服はモラトリアムの象徴だとするなら、ハムレットはあの先あれを脱いで何色の服を着るんだろう。他の人のようにグレーの色に「イエ」の誇りをつけるのか、喪の黒に赤を背負うのか。うーん…グレーは着てほしくないかもな。

また自分語りになるけど。
祖母の葬儀に父が恋人をいきなり連れてきて「空気読めよおおおおお!!!!!」となった経験がある私は、状況は全然違うけど、ハムレットが母親に対して抱くもやもやとした感情は若干分かるような気がしてます(笑)。
喪と晴れが混じる状態って結構なストレスなんだなと後々気づくことになるんだけど、これをきっかけに父とは数年間絶縁状態になるほど関係が拗れました。多分、別の機会に引き合わされてたら「あー、はいはい」で終わっていたことなのに、あの場でぱっと簡単にお披露目したかったのは分かるけど、あのタイミングで来る女は絶対無理!と心に高い壁が……。「忌中」とかある意味がよく分かったできごとでした。

自分語りを挟んでしまった…

うー。
ちっとも書きたいこと書けてないけど、これから東京の千秋楽を観に行くので支度をします。

ネタバレあり/マチルダ、東京公演が終わっちゃいますね…しんみり…

「マチルダ」の感想をネタバレ有りで書きたいので、ワンクッションとして少々私自身のことを。


社会人になって一年経った頃、臨床心理士によるカウンセリングを予防的に受けていたある日、「自覚がないようですが、あなたが受けていたのは虐待ですよ」と言われた。

きょとんとした。

心理学を専攻し修士まで行った私が被虐待児?ほんとに??でも、正常を知らなければ、異常は分からないのだ、結局。「普通の家庭」「普通の母親」「普通の父親」が何なのか今も知らない。

 

そんな背景がある私が観た感想なので、重くならないように気をつけるけど、重くなってるところがあったら申し訳ない。


■トランチブル、コンプリート。

イープラス公演の安さに見事に釣られた結果、トリプルキャストのトランチブルをコンプリートできました。カーテンコールでの大貫さんの挨拶がきちんとトランチブルで笑えました。

小野田トランチブルと達成トランチブルは前回書いたので、大貫トランチブルのことを。と言っても1回しか観ていないので、勘違いがあったらごめんなさい。

かわいいというツイートをたくさん見た気がしていたし、『ルパンの娘』や『Kappei』でのイメージがあったので、面白くてキュートなトランチブルなのかと思いきや、私はいちばんこわかったです、大貫トランチブルが。
黄色いリボンが華やかな「The Hammer」。おそらく「かわいい!」はここかと。でも、私の心の中で「ほわぁぁぁぁ!!」と訳の分からない叫びが出てしまったのは、リボンよりも前の部分。ステージの奥から上手前方へ歩み出て、照明で作られたサークルの中、ハンマー投げの動き。 粉をつけた両手がすくっと上がってピッと一瞬止まって、そこから手をぱたぱたとただ振るんじゃなく、キレキレで細かいパタパタ。若干イラッとするほどキレのいい動き(笑)。
ダンスのことなど全然知らない私が感じたことだから「そんなの正しくない!」って言われそうだけど、動きが映えるかどうかって止め方が美しいかどうかが大きいような気がする。トランチブルは動きがいちいち大仰だけど、指、背筋、腕、脚が作る角度がぱきっと不気味に決まる「静」の瞬間があるからこそ、そこからの「動」で彼女に宿っている負のパワーがまき散らされるような恐ろしさがあると思っていて。そういう視覚的な恐ろしさが大貫トランチブルには強くあったような気がします。

あと、どこがどうとははっきりとは覚えていないんだけど、達成くんが姿勢よく顔を上げてるところで大貫さんは下げていて、それを2階から観ていると、あの肉襦袢に首から埋まってるように見えてとても不気味でした。 声もドスが効いてるから、ほんとこわかった!

達成トランチブルは「とは言ってもさすがに直接的にはやってないんじゃない??」と思わせるところがあるけど、大貫トランチブルは「あ。こいつはやったな。間違いなくやった」と感じる。小野田トランチブルはあの余裕たっぷりの禍々しさに人外っぽさを微妙に感じてしまって、特殊な方法でやっちまってそうな気がする…。

The Smell of Rebellionのホーテンシアの吸入薬は大貫トランチブルは脇の下にシュシュッとしてましたね。
達成トランチブルが香水で、小野田トランチブルは点鼻薬
こんなところにも個性が(笑)。3人で相談したのかな。

The Smell~と言えば、跳び箱の上でエロティックに脚を上げるトランチブルだけど、小野田さんと大貫さんの脚はフツーにサラッと観ることができるのに、達成くんのあの脚は観てはいけないものを観てしまった背徳感がめちゃくちゃあって、流れでうっかりオペラグラスで見ちゃった日なんかもう罪悪感まで湧いてくる始末……。あの美脚、ほんとすごいな。


■そういえば、達成トランチブルは…

開幕から間もないときよりも声のキーが少し下がったような気がします。
それで余裕が生まれたのかは分からないけれど、先日観たときには歌声での表現の幅が広くなって、トランチブルの忌々しさが増強されていました(あくまで私の主観ですからね)。
そうなると、前回のブログに書きなぐった「トランチブルと酒飲んで語りたい」という、彼女を私と同じ此岸においておきたい気持ちが随分薄れて、決して手が届かない悪として彼岸に立っている彼女を崇めたい気持ちへと変わっていました。まぁ、結局、どうなろうと私はトランチブルが好き。

■ステージセットと身長と。

最初に観た回の席は14列目で、比較的低い位置にある席でした。
ステージの上部に届きそうなほど高い図書館の本棚を下から見上げた瞬間、心にすとんと落ちてくるものがあって。
あぁ、これはマチルダの目線から見た世界なんだ、客観ではなく主観なんだ、って。

だから、トランチブルがいくら大柄の女性だとしてもあり得ない肩幅だったり、そのトランチブルと大して変わらないほど長身の上級生がいたりしても、それはあくまでも小さなマチルダが見上げた世界。小学校1年生の頃、給食当番に来る6年生がおっさんに見えたあの感覚に似ています。

そして、主観であるなら、チルダや子どもたちだけが正義とも言い切れないし、言う気もないのかな、と。無意識のうちにすべてに共感しなきゃ、教訓を得なきゃと構えて劇場へやってきた自分に気づきました。
確かに、立ち向かう強さを持って自分で踏み出す勇気というのは私が定期的に失っては取り戻すものなので(笑)、きっとこの先の人生で何度もマチルダのことを思い出しては前に進もうと思うのでしょう。けれど、Mr.ワームウッドやMrs.ワームウッドもトランチブルもまわりからいなくならないのが現実の世界で、だからこそ自分にとって居心地のいい場所を見つける喜びがあるのだと思います。
単に憎らしいだけの登場人物たちだったら勧善懲悪で分かりやすいのにね。そうじゃないから、魅力的だし、その時々の自分の心を濃く映して感動するんだろうな。


■誕生の奇跡

赤ちゃんはひとりいるから要らないというMrs.ワームウッド。
赤ちゃんは息子ではなく、娘だったと落胆するMr.ワームウッド。
残念ながらワームウッド夫妻のように子に愛情を持てない親はいる
でも、Mrs.ワームウッドが妊娠に気づかず臨月を迎えてマチルダを産まざるを得なかったというのもある意味で奇跡だと私は思いたいです。
さすがに子どもにそれを奇跡だと思えとは言わないし、私も自分自身の誕生を「産んでもらえただけ幸せ!」と思うようになったのは最近だけれど、選別されるリスクを背負った子どもにとっては生まれてきたことそれだけでもう奇跡。

とはいえ、「Miracle」は毎回泣く。あぁ、これが普通の子どもたちなんだ…って。
そして、マチルダが自分の境遇はほかの子どもとは異なることを理解し、それを隠そうとしているのがつらい。

少々自分語りになってしまうけど。両親の「作品」として養育されてきたけれど、本質的に両親の「子ども」にはなり得なかった自分。
もし、両親ではない人の手で育てられていたら安定的な愛着関係を得て人間関係で苦労しなかったかもしれないと何度も考えたし、最近になって知ったけれど幼少期には私を母から引き離すべきだと親戚たちの間で話が出たこともあったそうです。ただ、その話から間もなく生まれた弟は普通に育てられたため、私の問題はうやむやになり、弟とは異なる扱いのまま育ちました(こういうところもマチルダに似ていて結構びっくりしたんですよね…)。
だから、「マチルダ」が両親の改心ではなく、ハニー先生が引き取るという結末を迎えるのは非常に現実的だと感じられて、そういった境遇にある子どもにとって希望だと思うのです。大人ってそう簡単に変わるものではありませんから。

私がそういった境遇にありながら、大きく道を踏み外すことなく成長できたのは、祖父母や近所に住む大人たち、仲が良かった子どもたちが気に掛けてくれていたからでした。ご近所さんたちは私を食事に招いてくれたり、泊めてくれたり、レジャーに連れていってくれたりしました。30歳をとっくに過ぎて久しぶりにあった男性の友人が「ねえ、おかあさん、まだこわいの?」とこそっと尋ねてきたときには思わず爆笑でしたが。
ハニー先生になるのは結構覚悟がいることだけれど、フェルプスさんになることはできるかもしれないし、そういう場面に遭遇したら手を差し伸べることができる大人でありたいと思っています。


■私の中のゆがみと、トランチブルと、Mrs.ワームウッドと。

トランチブルが好き。というのは推しがキャストのひとりだから、ということもなくはないけれど、ルールにがちがちに縛られて育ってきたせいで、とりあえず言うことを聞いておけばいいという環境が嫌いではなかったりする、というのもあります。
高校時代は毎日4時間ほどしか眠れなかったけれど、山のように出される課題をひたすらこなしていれば、難しい大学に入れました(ちなみに課題を溜め込むと容赦なく頬をぶたれました。今では考えられないけれど、当時は当たり前だったんですよね…)。
仕事でも、質問にすぐに回答をくれて、決定権があって、いざとなれば他部署に抗議を入れてくれるような攻撃性も持つ強い上職者と関係を絶対に作ることで円滑に進めようとする傾向があります。
逆に、実家から遠く離れてひとりで暮らし、何にも縛られていない大学~大学院時代の私は、何をしていいのか分からず、半引きこもり。

だから、私はトランチブルみたいな人に取り入ることで、それなりの平穏を得たい!
楽したいとは決して思わない。
彼女のような人の庇護の元で馬車馬のように働きたい!そして、彼女のような人に認めてほしい、愛されたい!

文字にしてみて改めて思ったけど、マジでクズだな、あたし(笑)。

けど、この感情って、マチルダに対しても持てる。
彼女も「正しくない!」って言い切るほどの明確な判断基準があって、強いし、指示も出してくれる。
明と暗に分かれるけれど、根っこの部分でマチルダとトランチブルは似ているとも言えるんじゃないかなぁ……とドクズなあたしが言ってみる。


そして、Mrs.ワームウッドが私は大好きでね……
大塚千弘さんのMrs.ワームウッドが好き。

お勉強ができるよりかわいい子がいい(男の子は不良がいい)みたいな価値観が深く根付く土地で育ったんですが、我が家は親が勉学至上主義。派手なことをやってみたいけどできない、だから周囲に認められていない気がする(っていうか、実際、随分いろいろ言われたね)…という抑圧された状態で育ってしまって(笑)。だから「Loud」で彼女が叫んでいることは、あの頃の私がなってみたかった姿そのもの。
霧矢大夢さんのMrs.ワームウッドは「こんなこと言ってるけど私これに100%納得しているってわけでもないのよ」的なちっちゃな苛立ちを感じ取ってしまうんだけど、大塚さんのは「マジでそれしか知らないし!」っていう感じがする突き抜けた態度がすごくすごくかっこかわいい。
チルダに対する彼女の態度は紛うことなき虐待であって許されるものではないけれど、彼女が着飾ることに価値を見出し、自分の美しさを認めさせるためにダンスに打ち込むということ自体は素敵なことだと思う。着飾る、で止まってたら「ふーん」で終わるけれど、あのダンスは称賛するしかないでしょ、と。
あの甘くかわいい声と凄みの効いた声と甲高い声を行ったり来たりするのも心地よくて。ほんと好き過ぎて、ルドルフォに嫉妬しそうだし、オペラグラスでガン見してしまってすみません。

だから、私はトランチブルが上司で、Mrs.ワームウッドがパートナーだったらいいなー!!って思ってます。
(歪んでる自覚は一応あります)

 

■つらつらと。

アマンダをトランチブルが投げ飛ばすシーン。トランチブルの巨体にちっちゃなアマンダがすっぽり隠れるので安全確保のために何をやっているのかなかなか見えなかったんですが、角度によっては普通に見えてますね。意外と簡単な方法で脱落しないようにしてますね。
小さいとは言え、持ち上げて結構なスピードで回すんだから、すごくない…??男性キャストじゃないと無理なの分かる。
ちなみに、私が観た小野田さんと大貫さんの回はアマンダ役がキダルトの方だったので回すところは無し。無いと前後のつながりが分かりづらいなと思いました。


仕掛けといえば、大きなチョコレートケーキが本物っぽいのに、消えていくのも不思議で。これも上から観ると仕掛けは明らかですが、ブルース役の子たち、みんな上手に消していくなぁ…。

斎藤司さんのMr.ワームウッド、「Miracle」の「タマとサオがなーい」の「なーい」のところがかっこよくないですか?
田代万里生さん・斎藤准一郎さんは高く張った感じで伸ばしますが、司さんのは低めでオトナな雰囲気。
ぶるっときちゃって、なんなんだいまの震えは…と思ったんですが、次に観たときにも、うわぁぁぁぁぁってふるふるしちゃうくらいかっこよくて。
けどさ、「タマとサオがなーい」がかっこよかった!!ってすごく言いづらくない?ツイートするのもアレだし。画像じゃないけどセンシティブな内容だし。でも、ほんとにそこで「あ。斎藤さんがまたミュージカルに出演するときは絶対観に行こ」って思ったからね。

またもや、少々自分語りですが。

私、弟が生まれたときに「ねぇ、あたしはどうしてこの"むし"がついてないのー」と言い、おむつ交換の度に覗きに行くという執着を見せてたんだけど、大人になってからは「ねぇ、これいいなぁーあたしもこれほしいなぁーどうしてついてないんだろー」と恋人たちに言い続け、震え上がらせていた前科があります。
ほんと、どうして、
タマとサオがなーい!!!
あの瞬間、Mr.ワームウッドとともに心の中で叫んでるからね、あたし。

 

■残念だなと思うこと

書こうか書くまいか迷いつつも、敢えて、誰かの目に触れてもいいという覚悟で書きます。

子どもキャストのレベルの違いがかなり大きいと感じました。

嘉村咲良さんは素晴らしいと思います。
複数回観ましたが、ことばを観客に届けるという想いが感じられる演技と歌唱でした。

嘉村さんのマチルダは感情表出が大きくないという設定に沿っていて、感情が膨らんでしまいがちなシーンでも先走らずに余裕を持って喋っているように見えます。
例えば、脱出名人とアクロバットが危険な技に臨むシーン。台詞が多いし、影絵でストーリーが進んでいくから絶対間違えられないし、音楽が大きいし、内容も緊迫感がある。すごく難しいシーンだと思うけど、嘉村さんは緊迫感のある物語を臨場感たっぷりに語りつつも、あくまで語り手としてそこにいる、という落ち着きが感じられてすごいなぁと思いました。

ですが、嘉村さん以外のキャストの方々で私が観た回の中では、何を言っているのか分からない箇所がところどころあったり、中にはかなりの箇所が聞き取れなかったりする方がいました。開幕直後は音響の問題もあったように感じましたが、それが改善されて開幕から相当の日数が経ってからもほとんど変わらない方もいました。

原作を読んだ上で何度も観に行く私のような人間は変わり者であって、大抵の人にとっては一期一会です。
小さな子どもがたくさんの台詞を覚えて、上手に歌を歌っている、すごいな。それはそうだと思います。
けれど、それは舞台に立つための最低限のレベル。
ことばを舞台上の登場人物に届けられればいいのではなく、観客にもきちんと届けられてこそ、仕事だと思う。
きついことを書くけれど、S席14,000円という決して安くはないチケットに見合うだけの演技をしてほしいと思いました。
でも、これは子どもが努力してどうにかなる問題でもないような気もしています。子どもの滑舌や音域では聞き取りづらくなる単語はある。うん。

子どもが出演する舞台やミュージカルを観る機会がほとんどなかったので、「いや、子どもはそういうものだよ」と言われたら「そうなんだ…」と言うしかないんですが、なんかね、一応、お気持ち表明じゃないけど、うん。一応、書いておきたかった。

 

■終わったかのようにいっぱい書いたけど

まだ行きます。

5日は確定で、6日は迷ってます。

ネタバレあり/ミュージカル「マチルダ」を観て40代独身女が泣く。

ミュージカル「マチルダ」を観に行ったよ!という話をネタバレありで書きたいので、ワンクッションとして関係ない話を少々。

晦日紅白歌合戦ではなく、「サウンド・オブ・ミュージック」を観せられるという家庭で育った反動で「ミュージカル?……絶対無理。音楽劇は大丈夫なんだけど」という人間だったんですが、推しを推したいパワーってそういうの蹴散らしちゃうよね。「四月は君の嘘」を配信で観たら「歌が耳に残って気持ちいい!」と感じてしまい、年末のホリプロのミュージカル・コンサートもとっても楽しかった!!

そんなわけで楽しみに待ってた「マチルダ」を観に行きました。
っていうか、週1マチルダ状態が続いております。

(以降、ネタバレがあるのでご注意ください)

■ちなみに、現時点で観てるのは

2023/3/26 ソワレ 14列目上手側
2023/4/2 マチネ 10列目上手側
2023/4/8 ソワレ 14列目上手側
2023/4/14 マチネ 3階中央最後列
2023/4/14 ソワレ 5列目上手側

子どもキャストはレッドとオレンジとグリーン、
トランチブルは達成さん4回、小野田さん1回。
初回から原作既読で観ました。

■リアリティのあるトランチブル
最初に観たのは達成さんのトランチブルでした。
原作を読んだときに、粗野で品がなく、どちらかといえば無性別に近い人物をイメージしていた私にとって、達成トランチブルはかなりの衝撃でした。

初めて観た日。
あの扮装を持ってしても隠しきれない美しさって一体……というのは置いておいて。
動きのひとつひとつが美しくて、テレビのリモコンを持つ仕草をする手の形や人を指すために伸ばした人差し指の反り加減まですべてが計算し尽くされたよう。
そっか……トランチブルも女性だよね……としみじみしながら休憩時間を過ごしました。

そして、2幕。
体育の時間にお色直し(違う)をして出てきたトランチブルがますます女だった。
あの体型では洋服選びも苦労するだろうに、きっと彼女なりにせいいっぱいかわいらしい格好をしているであろうあの運動着。そして、スカートから服がはみ出していないか気にする仕草。悪魔のようなトランチブルだと頭では分かっているのに、なんかむしろもうこの人愛おしいな……と思い始めるあぶない私。そして、ホーテンシアの吸入薬を取り上げ、香水をつけるような仕草を見せたあたりで軽い目眩が起き、やたらとセクシーな足捌きに悲鳴が漏れそうになる。
そんな彼女がマチルダに「でっかい、デブのいじめっこ!」と言われ、一瞬呆然とした後、傷ついた表情を見せ、その大きな体を隠すようにパーカーのジッパーを上げるところで、私の涙腺は緩み、そして、「マチルダ、てめぇ!」とこみ上げる怒り(え?)。

彼女はハンマー投げのオリンピック選手として名声を得たものの、その後はアクロバットの妹のマネージャーのようなことをし、学校の校長となったと思われます(このあたり、原作と違う点が多いですね)。
オリンピック選手になるくらいなのできっと相当な努力をしたはず。でも、今の彼女は「今どこで何をしているのでしょうか」と言われるほど、表舞台から遠ざかった生活をしている。望んでのことなのか、不本意なのか分からないけれど、独身のままで。彼女は過去の栄光に縋り、自身の努力でどうにもならないことは許せないという価値観を抱えて傍若無人に生きている。
美しく、人気者で、結婚し、妊娠したアクロバットの妹への嫉妬があったと彼女は認めないだろうけれど、なかったとは思えない。
彼女は「でっかい、デブ」と何回言われてきたんだろう。嘲笑もあれば、子どもの悪意ないひとこともあったのではないか。

傍若無人に振る舞いながらも、ずっと見開いた目とヒステリックな声に彼女の怯えを感じる。彼女は病んでいるのだ。彼女に精神的なケアを!!

………いや、これ、物語だったわ。


原作を読んだときには忌々しくて大嫌いでぼこぼこにしてやりたいほどだったトランチブルなのに。
達成トランチブルがリアリティを滲ませてくるから………
彼女と酒を飲みながら、彼女の人生を彼女のことばで聞いてみたい。なんてことをしんみりと考えながら、その日はおうちへ帰りました。

しんみりするんだけど、時々冷静に思い返すと「いや、トランチブル、ギチギチとかないわ……」とちゃんと思えるから私はまだ一応正常なところにいます、一応!

中の人の顔がきれいだとか、脚がきれいだとか、それによって男性が演じているのに女性を感じさせるというのはもちろんあると思いますが、トランチブルを演じるにあたってはそれって武器になり得るかと言うと微妙じゃないかと実際に観るまでは思っていました。
実際に観たら、そういった要素があるからこそ人物造形を掘り下げる方向に行って女性としてのリアリティがあるトランチブルになったのかな……と思ったりします。

■他のトランチブルは?
これだけトランチブルに変に肩入れしてしまうと、じゃあ、他のキャストのトランチブルはどうなの?とやっぱり思ってしまうわけで。
小野田トランチブルの回、観ました。

全然違う。

原作を読んでイメージしていたトランチブルはまさに小野田さんのトランチブル。
ふてぶてしくて忌々しくて、女性とか男性とかそういう枠組みでは到底括ることができそうもない「トランチブル」という寓話的な生き物がいる感じ。

その回はパワフルなマチルダ(三上野乃花さん)だったこともあって、ふたりに圧倒されつつ結構笑いました。

吸入薬は確か鼻に突っ込む仕草だったよね(笑)。

■良し悪しということではなく
役者さんが何を考えて演じているのかは分からないし、私という個人が観劇という体験の中で何を得たかということでしかないのですが、トランチブルに関して言えば、「好きに楽しく生きている」と言っている私がトランチブルの姿を通して、実は心の底に沈めている敵意や悪意、嫉妬、苛立ちといったものに気づかされて、あの時間だけはほんのちょっとそれを開放できたという意味では、達成トランチブルがとても好きです。
(マチルダ目線ではまた全く別のことを感じたので、それも別で書きたい)

歌唱に関しては小野田さんの歌、すごかった…
ただ歌うんじゃなくて、いろんな感情を歌声の中で表現できるんだなぁ…って。
声がふわっと膨らむ感じが聴いていて心地よかったです。

歌といえば、Zekeが出てくるところ。
達成トランチブルは妙な笑みを浮かべて品を作るので「トランチブルがまじでおかしくなった。病院連れていかなきゃ」とぎょっとするほど。
小野田トランチブルは割と普通に歌うし(歌ってる内容は狂ってるけど)、歌がうますぎて普通に聴き入ってしまう。けれど、子どものツッコミで「そうだよ、へんだよ!」と我に返って笑える(笑)。


今まで複数キャストの演劇を観ることがなかったので(ミュージカルを生で観るのはほぼ初めて)、こんなふうに比較できる楽しみがあるのもいいなと思いました。
けど、チケットを買うときにすごく緊張するよね。5回くらい指差し確認するもん(新卒のときに上司から言われたことが身についてる)。

■せっかくなので
3階中央最後列で一度観たんですが、照明の面白さやダンスのフォーメーションの美しさは前方席では分かりづらいので、上から観るのもいいですね。
今後もあと何回か行きますが、3階最後列が楽しかったので、バルコニー席にした回もあります。楽しみです。

何度も観る楽しみを教えてもらった「血の婚礼」

ネタバレを含む内容なのでご注意ください。

10/2に東京での上演が終わった「血の婚礼」。
観劇は年に数回程度だった私がこの作品にはどうしようもなくハマってしまったのはなぜなんだろう…とあれこれ考えたことをつらつらと書いているだけです。


■そもそもは2回しか観るつもりがなかったのに…
9/17と10/2のチケットを取り、岩波文庫の翻訳本で予習したのですが、何度読み返してもよく分からない。第三幕の「月」の台詞などさっぱり分からない。そんな状態で9/17に観たところ、「あれ…?脳では理解できないけれど、胸に滲みるよ。なにこれ、すごい」と驚く。すごく気持ちいい。
それで、急遽、9/19も行くことに。そのときの感想がこれ↓ 

sacco-tuna.hatenablog.jp

物語と観客の距離を縮めるような演出やセット。
残りの命の長さを表すように短く降る砂。
「家」や面子、凝り固まった価値観を連想する衣装のハーネスや色。
息が詰まりそうなほど壁に囲まれて狭い家。
地上で生きる人間たちとは全く異なる感性を持ちながらも魅力的な月や死神。
転がされる生命。
壁が取り払われてもなおそこにある心理的な壁。
言語で理解できなかったことを視覚、いや、視覚だけではないな、音楽も素晴らしいから聴覚も、そういった感覚が補っていって、滲み込んでいくように、時には飲み込まれるように分かりました。そして、もっともっと分かりたい!という欲求が出てきてしまったわけです。
これが、9/17に観て、9/19も!となった理由。
(少し脱線するけど、あの家のセット。最初に観た日は4列目だったのもあって、着席してしばらく閉所恐怖症の発作が出そうで危なかったほど圧迫感がありました…)

特に「月」は……うまく言えないけど、暴力的なくらいの魅力で気持ちをかっさらっていって、なんだかわかんないけどとにかく「分かりました!!」ってひれ伏したくなるんですよね。その訳分からなさが「この人(人じゃなくて月だけど)は私とは全く違う価値観で生きていて、人の死を快へと結び付けられるんだ…」と強引に納得させるほどの強さになるのかな。そして、あの声の抑揚がたまらない、酩酊したようにぼーっとする。
おそらく普通にきれいな姿で出てこられてもこれほどまでに気持ちは持っていかれなかったと思います。あの姿であんなふうに登場されたら、ぶん殴られるほどの衝撃をくらって…。ずーっと視線が勝手に追い続けて、ぶっちゃけると、あの手袋をつけた手で引っ叩かれたい、あのブーツで踏まれたい!!

■不安定という意味ではない振れ幅
3回目が9/24のソワレ。これは完全にアフタートークイベント目当てで取ったのですが…
少し後ろの席で全体をじっくり観ることができたこともあってなのか、レオナルドの感情の振れ幅が公演によって違うのでは?と気づいてしまい、更に観たくなってしまったのです。
私自身のそのときの心理状態を多分に投影してしまっているので「そんなの違う!」と思われる方がいることを百も承知で書くと、

9/17 ソワレ 対妻:イライラ強め
9/19 マチネ 対妻:イライラ強め
9/24 ソワレ 対妻:以前よりもちょっとだけ柔らかめ 
       対花嫁:切なさ成分多め
10/1 ソワレ 対妻:苛烈…冷たい…こわいってば…
       対花嫁:切なさ成分強めで愛が溢れてる…
10/2 マチネ 対妻:適度に苛烈       
       対花嫁:切なさ成分多め

頭で考えると10/2がすごく良かったと思うけれど、自分があの中にいてレオナルドと対峙するのであれば10/1の苛烈なレオナルドに当たり散らされて冷たくされたい。妻に冷たく当たり散らした反動なのか、花嫁に対する愛がこれでもかと溢れていた気がします。ほんとに「気がする」だけですけど。
すごいなと思うのは、どのレオナルドも全く浮かないと言えばいいのか、違和感がないんですよね。悪い意味で演技が安定していないのではなく、いい意味で安定させていないのかな、と。多分、1回しか観なかったらそのときのレオナルドがその観客にとってのレオナルドであって、それに対して不満を感じることはないんだろうな。そして、何回も観ると、質は担保されながら微妙にタイプの違うレオナルドに出会えて、どのレオナルドも好きだけどあの日がいちばん好き!という喜びもある。
これまでも2回観た演劇がいくつかありますが、これほどまで違いを感じたことがありませんでした。何回も観る面白さに気づかせてくれてありがとう、レオナルド。
ちなみに、花嫁は9/24のソワレが迫力がすごくて好きです。

そういえば、アフタートークの中であった「原作には決闘シーンがなく、今回の台本にも当初はなかった。後で付け加えた」という話が非常に意外でした。木村さんが体を止めたり、振り抜いたり、相手を受け止めたりする動きが溜息が出るほど美しい!と思って観ていたので、決闘シーンがなかったらいちごが載ってないショートケーキみたいだなと思いながら聞いてました。

 

■最初のシーンから泣いてしまう
非常に個人的な感想になりますが。
心の引き出しの中から自身が経験したことがある感情を素手で掴まれてずるりと引き出されるような作品が好きで、「血の婚礼」の第一幕の母親と花婿の場面はまさにそういう衝撃がありました。
息子は母親を見つめているのに、母親は過去や心の内側ばかりを見つめていて、視線に気づくことがない。息子が声を荒らげても、母親の「ごめんね」には息子が求めている感情はこもっていない。
私の両親も「今、目の前にいる生身の私」に関心を持てず、憤りに囚われて生きている人たちなので、花婿の気持ちが分かります。母親が理性を失ったかのように怒りの方向へ転がっていく姿なんて私も何度も見てきたし、叫ぶ寸前の花婿の表情は私が何度もしてきた表情。私に叫ぶ勇気はなかったけれど。
だから、ステージに上がった母親と花婿がすれ違う瞬間にもう涙がだーっと出てしまって、まだ台詞もなにもないうちに既に泣いている私。

花婿は結婚式を終えた花嫁からも見つめてもらえなくなるわけですが、この話に出てくる人々はきちんと愛されていない人ばかりで、これが当時のスペインでは当たり前だったのか、そういうところも含めての悲劇なのか…。花嫁の父は花嫁に亡き妻を重ね、その亡き妻は夫を愛しておらず、レオナルドは妻を愛してはいないし、妻の母親も夫に愛されていなかった。なんだか虚しいなぁ…。
その一方で、花嫁と女中が喋るシーンや、母親と村の女が喋るシーンは真情を吐露していてほっとします。属性を全部無視するなら、このペアがくっつくのが安泰ではないかと思えるほど。
花嫁と女中と言えば、第一幕の最後の暗転直前で、花嫁が窓の前にいて顔を横へ向け、女中がその横の壁の前に立っている瞬間のシルエットが表情はほぼ見えないけれど絵的に美しくて好きです。女中がすっと窓の枠から離れて壁の前へ移動する感じが、女中として支えてきた月日の長さを思わせて、ふたりの遠慮のない会話も含めて、いいなぁと思います。

■劣等感との決闘…?
レオナルドと花婿は決闘の末にふたりとも命を落としますが、互いを人として嫌悪し憎んで殺した、という気があまりしないのは私だけでしょうか。
レオナルドは裕福な花婿が花嫁を手に入れ、自身は貧困が原因で花嫁を手に入れられなかったと思い込んでいる。母親から歪んだ愛情を向けられてきた花婿は自分だけを見つめてくれる花嫁を手に入れたはずだったのにそれさえも奪われてしまった。ふたりとも表面的には相手の命を奪う覚悟で決闘しているけれど、根底には劣等感があって、それに打ち勝ちたかったのではないか、と。原作に決闘のシーンがないのはそういう理由なのかな…と思ったりもしたのですが、私はあの決闘シーンを観てそんな解釈に至ったわけで(なかったら、大して考えなかったかも。「あ、刺し違えて死んだんだ」で終わってたかも)、やっぱりあのシーン、大好きです。

レオナルドが結婚式の朝に花嫁のところへ来るシーン、貧困について話す部分も含めて台詞が全部痛々しくて、泣き崩れそうになる……。妻に対する態度とのギャップが激しくて、あんなに冷たい人の本質は、こんなに深い悲しみに打ちひしがれながら、もう何もないかもしれないところに手を伸ばして、自分を壊してしまいそうなほど愛に雁字搦めにされていたんだ…と思うと、なんかもうほんとに、わぁぁぁぁぁぁって泣きたいほど切ない。
と同時に、これほど切ない気持ちにさせてくれる素敵なお芝居をありがとうございます、とも思います。だって、日常でこんな気持ちになることはないですから。

■意外と。
物語とは異なる部分ですが。
「オールドファッションカップケーキ」で達成さんを知ったという新参者なので、生で姿を観たら「きゃー!かっこいい!」って思うんだろうなと思ってたけど、思わなかった。レオナルドとしての美はすごく感じるんだけど、そこには「レオナルド」としてしかいないでしょ?当たり前だけど。アフタートークのときにやっと「達成さんだ!」と思ったけれど。
でも、思い返すとoldfccの外川も「この役者さん、長回しでもふつーに演技できちゃう人なんだな、すごいな」「台詞を喋ってないときでも表情の変化が繊細で自然だ」「動きや起伏が激しい長回しもできるのかー!」と、ルックスではないところでハマっていったので、まぁ、そういうものかもしれないです。
カーテンコールでレオナルドのままなのも好きだなぁ。あれほどの悲劇を観た直後に笑顔を見せられても困るっていうか、あの重苦しいものをそのまま持って帰りたいから、レオナルドのままでいてくれてありがとう、って思います。東京千秋楽の日も表情が少し柔らかくなったかな?程度でしたよね(この日、席が後ろのほうだったんではっきりとは見えてないんだけど)。


随分長々と書いてしまったよ。4000字超えてるわ。
さて、明日は10月16日。
千穐楽、観に行ってきます。
東京から大阪、日帰りです。

「血の婚礼」を観ました

「血の婚礼」観ました
というか、全部で5回行く予定があって、今日(9/24)この後3回目。

最初に観た9/17の感想をfbに書き殴っていたので、こちらに転記。
(少々ネタバレありなのでご注意ください)

の前にワンクッションとして、ネタバレにならないようなことをつらつらと。
今までも演劇を観に行くことは年に数回あったのですが、知人が出演している、もしくは、好きな俳優(普段は映像作品が主)が出演しているから観に行っており、つまりは演者が目当てであり、演技と物語を楽しむのが目的でした。

ですが、「血の婚礼」はそれ以上の楽しさ、今までとは違う楽しさを感じたんですよね。
まったくうまく表現できないのがもどかしいんだけれど。
特定の作品に深くハマることが映画に関しては時々ありました。私にとっては「血の婚礼」もそれに似ています。演技や物語ももちろん楽しむんだけれど、舞台装置(映像作品ならセットやロケ場所)、美術、衣装、メイク、音楽……そういった非言語的な要素にまでも様々な解釈を見出せるような作りになっていると深掘りしたいから何度も観たくなり、まさに沼。
そして、映像作品に関しては撮影のテクニックや絵の切り取り方に心惹かれることが多いのですが、舞台にカメラはないので「前回はこのシーンでこっちをしっかり観てたから、今回はあっちをじっくり観よう」「今日は花婿の気持ちになって観よう」と自分自身がカメラマンになった気持ちで……って、やっぱり何度も観る楽しさがあるんですよね(笑)。
時間の制約があって映画ほどには回数を重ねられないのですが、こういうハマり方ができる舞台の作品にこれからたくさん出会えるといいなと思います。

そんなわけで、なんだか意外と「きゃー!かっこいいー!」みたいなテンションにならずに観劇を楽しめる自分に気づいてほっとしています。
(でも、「佇まいが凄まじく美しい…」とは思います)

 

では、ネタバレを少しだけ含んだ9/17の感想をちょこっと。

 

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舞台装置が簡略化されていることでそれ自体にメッセージを持たせることを可能にし、ビビッドな照明や記号的な衣装、生演奏の音楽といった非言語の要素もすべて使っての表現に感覚を刺激されて、うっすらと汗を掻くほどの興奮。
 そして、特に第二部の詩的な台詞は文字を読んでも完全に理解することは難しいけれど、ステージを広く使った身体的な表現を伴って発せられると途端に心の中にすっと滲みて、滲みて、滲みて。
翻訳を読んだときにはからからに乾いた赤土の大地をイメージしていたし、このステージだってココナッツの殻でできた砂を敷き詰められているのに、その砂がじっとりと濡れているような気がするほど、重いものが腹の底に残るお芝居でした。
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そんな感じでした。

台風が近づいているけれど何とかなりそうですね。よかった。